昭和50年03月31日 杉寛三5年祭
ただいま杉さんの5年の式年祭を、この様に御霊の前だけは麗しく、奉仕させて頂く事が出来た訳で御座います。教祖様の御教え下さる中に、「生きても死しても天と地はわが住みかと思えよ」と仰られます。それこそ根の国も底の国も地獄も極楽も、言わば天地より他に出る所はありません。天地の中に、しかもご守護の中にある訳です。
私共の生涯というものが、まっそれぞれの運命と申しますか、生まれてすぐこの世を去って行く人、50年60年、又は80年も100年も、この世に長生きのおかげを頂いて、様々な事で御座いますけれども、まあ仏教的に言うなら、言わばこの世は仮の世。もう本当に天地金乃神様の、目からご覧になれば、パッとこう瞬きをする暇もないくらいだろうと思います。
その例えば、50年なり又は60年なり、又はそれが100年でありましてもです、その間に私共がこの世に生を受けて、何を持ってこの世に生を受けて来たか、どういう神慮、お計らいがあって、この世におかげを受けて来たか。
ただこの世ではなら我情我欲いっぱいで終わっていくにん、いよいよ本気で気付く所に気付かせて貰い、言うならば天地の心を心と分かり、言うなら天地にあるところの、言うならば心、法則とでも申しましょうか、その法則に従って行く為には、普通ではとてもとても法則に従うということ」は出来ません。難しい。
けれども神ながらに出来れる道は、唯魂を清めるということの外に手はありません。言うならば、この世には魂を清める為に来ていると云う事になります。しかも天と地はわが住みかと仰せられるのですから、生きても死にても、生きてからはわざは言うならば、長生きした所でまあ言うなら100年。けれども言うなら、死してもという世界は、もう言うならば永劫なのであります。
もう本気で私どもがね、この辺の所に一つ気付かせて頂いて、天地の心を心としての生き方を身に付け、本気で魂を清める事の、精進をなさなければ、実を言うたら居られない訳であります。
昨日は、熊谷さんの、実のお母さんに当たられる方の、御霊様のお祭りをさせて頂いた。熊谷さんがもう70例えばまあ5か6かであられましょうか。4つかぐらいの時に亡くなられたって言うんですから、もう全然覚えておられない筈なんです。けども何かしきりと最近はその、まだ顔も見知ってはいなかった、どう言う様な母であったかということも知られなかったけれども、その、お母さんの事がしきりに思われてならない。
そこで太郎原に縁に付いておられます、熊谷さんのお姉さんが健在でおられますから、ご姉妹二人でお話して、昨日は慰霊祭が御座いました。本当に信心が分かり、言うならば家の根であるところの先祖と言うか、又は親の御霊のお祭りを、その娘たちが集まってなされる。ま日頃の、熊谷さんの信心が、まあ昨日のあのお祭りの、あの様にしてまあ現れた訳です。
私は頂き終わって、驚きましたということは、その亡くなられたお母さんの娘が言わば二人です。熊谷さんと太郎原に(?)行っておられる。それにその方の娘さんが来ておる、その方の孫さんが来ておるその方のひ孫が来ておる、やしゃ孫が来ている。娘、孫ひ孫、やしゃ孫まで、言うなら揃うてからのお祭りでした。まあどの様にか、御霊様もお喜びになった事だろうと思うです。
しかもこのお祭りがこの様にして出来たから、後に残られる、例えば娘さん孫さん達がです、御霊のお祭りが此の様に、もう大事なものであり、有り難いものであるということが分かられて、まあこれから年々、今日を一つ、そのお母さんの御霊の慰霊のお祭りをなさるといいですねと言うて、お話をした事で御座いました。
私は、神様にその事のお礼を申させて頂いておりましたら、丁度あの茶室なんかに使います、かけいがこうあってね、手洗いの所にかけいがこうある。竹がこうたっね、こうあれしとるでしょ、こんふうになってる。これがかけいがこうやってここに、手洗いがこうここにこの竹がね、割れてるんです。
ですからお水は確かにこう来てるんですけども、ここの手洗いの中に一つも入らんで、ここんところでみんなこぼれてしまっておるという、状態を頂いた。これじゃ手を洗おうと思っても、一杯の水を水を頂こうというても、届いてないなあと私は思うたです。
その事を私お願いさせて頂きよりましたら、それこそ、青竹の綺麗な風に、しょろの紐のね、あのあれで、きちっとこうあの体裁よくして、してその水が、それこそ音を立ててあの手洗い鉢の中に注がれるところをご心眼に頂きました。
昨日の例えば、熊谷さんの思い立ちで、まだ見た事もない知らない、言うならば母のそれで何と言うですかね、70何年振りに御霊のお祭りということになる。それがね例えばその、信心に基づいてそれがなされた時に、言うなら残っておる子供達、子供のおかげで、そういう働きをお水ということ、まあお恵みと致しましょうか。
お恵みが受けておる、来ておるのだけれども、それが途中で漏れてしまっておったのが、おかげでこう手も洗う事が出来る、頂く事も出来ると云う様な、まあ例えて言うなら分かりやすく言うなら、そういうご理解を下さったんだと思うのです。言うならば、だから熊谷さんの信心によって、お母さんの御霊が改めて、こう浮かばれなさったという感じが致しました。
今日の御霊様の、お祭りをさせて頂いて、一番実感として、あの感じるのは、やはり私だった。椛目のお広間で人がどんどん助かる。教会でもない又は、私が教師の資格を持っていないのに、それこそ、門前市をなすと言う様に。
それこそ目が目の見えないものが目が見える様になり、ちんばが立ち上がると言った様な、あの杉さんの場合でも、北川のお母さんが、寛三さん達が、今度はあと一家中で、北海道の方へ行く事を思い立って、県庁の方の手続きまで済ましていくと言いよると言う。けれどもやりたくないのが親心。何とか親先生、引き止める手はなかろうか、方法はなかろうかというのが、杉寛三さんの事を願ったのが、私が初めてでした。
もう、県庁の手続きなにもかも済んどった。で神様に私がお願いをさせて頂きましたら、こういう柱に金の鎖で足をくくってある、くくったところを頂いた。これは足止めを頂くなあと思わせて頂いておりましたら、もういろんな事情がそこに、こんがらがって行けない事になったです。
それが寛三さんの、金光様のご信心に縁を受けられた始まりでした。本当に成程親の願い、又は神様がやってはならないという働きがね、あのようにして表れておった。それから間もなくでしたね、あの杉さん達がおいでられるという、そこがあの大地震で大変な、被害がありました。
そういうことが、ああそもそもの、私と杉さんの出会いで御座いました。まあそれから、お話を頂けば頂くほど、信心を進めれば進めるほど、もうそれこそ導かれたお母さんが、あんまり熱心になられるから、あなたの様に、そんなにもうそれ、丸きり椛目、椛目と言うて、泊り込みであなたの様にと言って勧めたお母さんが今度は、引き止めなさる様な感じで。
当時、人がどんどん助かる、人が沢山集まる。まあ終戦この方、宗教の神教の自由と言う事が認められましたから、誰にどうと言われる事はないのですけれども、さあ周囲のいろんな宗教、いろんな、金光教内でもです、それこそ椛目ではヤミで人を助けたと言った様な、まあいろんな風評が立ちましてね。
そこでそれを聞くに聞きかねて、是はどうでも宗教法人にしなければいけないというので、杉さんが一週間ぐらい泊まりこみで、金光教神愛会、宗教法人神愛会という会を発会された。その為の定款作成に確かに一週間ぐらい掛られたと思います。
言うならば、そういう合楽の前身であるところの、椛目の言わば神愛会当時の、まあ言うならば、功労者であったと言う事で御座います。まあそれからと言うものは、私の影の形のように、私がご本部参拝すると言えばご本部参拝、私がどこどこに行くといやあ、杉さんが付いておられない事はない程しの熱心な信心、そういう言わば打ち込み方で御座いました。
私は今朝から、今日のお祭りを仕える為に、朝のご祈念の時に、神様にお願いをさせて頂いておりましたら頂きます事がね、あの竹輪ですね。あの竹輪を輪にこうやって切ったのと、あれを斜に、斜めにこう切ったのと頂くんです。どういうこと」だろうかと私は思うた。そして今日こちらへご結界ついて、あの教典を開かせて頂きましたら、今朝の御理解で御座いました。
金光大神が教えた事をたがわぬように信心しておれ、まさかの折には、天地金乃神と言うには及ばん、金光大神助けてくれてと言えば助けてやると、言われる所のみ教えでした。ははぁこの事だったなと私は思ったんです。成程、天地金乃神様のおかげを、もうそれこそ生きとしいけるもの、これは人間だけではない、もう一切の動植物に至るまで。
天地のご恩恵を受けなければ、もうここ一寸動かれない。一秒間だって生きられない。それが天地金乃神様のご恩徳の中にあるのです。そういう意味でです、天地金乃神のおかげと言うものは、信心はせぬでもおかげはやってあるというおかげと、頼むから願うから縋るからおかげというおかげの、二様があるということです。
私共に信心が、例えば出来ていなくても、言うならば、一心に願うから、神様が言うならば、レンコン食うて下さって、おかげを下さるというのが願ってのおかげです。はあ今日は竹輪を頂いたのは、あれは向うの先を見てということなんです。神様がレンコン食うて下さって、下さる。しかも斜っぱに、斜っぱな信心とでも申しましょうか。お道の信心の、言うならば芯と言われる。
生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありという和賀心、和らぎ喜ぶ心、言うなら和の心、竹輪をこう縦にまっすぐ切った様なあの和の心。そういう信心を持ってする人、又は言うなら、斜っぱの信心をする人様々でしょう。けれども願えば縋れば、おかげを下さろう、というのがです、まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれと言えばおかげを授けるという、そういうおかげをです。
私は、何か今日の御霊様の上にひしひしと感じました。尚、私がお願いさせて頂いておりましたら、杉さんがね、こんなん横向きながら、私はここへおったです、横向きながら、タバコはスパスパと頂いておられる。そして灰皿がここへある、灰皿こっちあるんですよね。それでこっち向きながら、こうやってタバコの灰を落としておられる訳です。ところがこっち向いておられるもんだから、灰皿ん中に落ちんで、こっちの方へ灰が落ちるところを頂いた。
もし私と御霊様が、今日交流のおかげを頂いて、それならこう、人間の話す言葉のような言葉で、もしお話をするならね、こういうことであろうと私は思うた。親先生、あなたが仰って居った様に、御霊の世界は厳しい事ですよと。あなたが仰っておった通りでしたよと。
けれどもね、ご神縁を頂いて、合楽に、当時の椛目にあれほど打ち込ま、一時は打ち込ませて頂いたおかげで、そのご神縁につながって、今日おかげを頂いておる遺族、杉の者、方もああして、一家をあげて信心させて頂くようになり、それからのおかげの事を、言うならば、お礼を申されたのではなかろうかと思います、もしお話が出来たとするならば、ね。
そして、これからの事も又です。そして親先生、私がそれこそどこに魔がさしたか知らんけれども、あれほど打ち込んでおった合楽にです、信心をぱったりやめたかのように、疎遠になった。よく申します、もうこの頃敷居が高うして、あそこには行かれんと云う様な事を申しますけれども、丁度杉さんの御霊様もです、心には親先生を思いながら、心には金光教の信心を頂きながらです、何とはなしに、敷居が高うて、あまり寄り付かれんと言った様な感じが。
横を向いておられる姿じゃあると思いました。私の方まともに見らずに、横を向いてタバコをということは信心の一服だったと思うんです。一服しておられる。しかもね灰皿、灰皿ん中に入れんな、ここにこぼれとるんです。灰皿、私は灰ということをです、言うならば素直な心と言う、真心と言うふうに頂きました。ここでは、神様任せということを、親先生任せと言う。
赤が良いと思うけども、親先生が白が良いぞと仰れば、言うなら白を取らせて頂くという、「はい」という、信心をここでは、いよいよ本格的に身に付けて行く事を教えます。その「はい」がです、その信心がです、他の所を灰皿に入らんで、他の所を汚しておると言った様な、あの数年間の疎遠、ご無礼というものがです、今から考えてみますとあの何年間の疎遠というものが、本当に惜しい事でした。どうぞ私の後に続かれる皆さんの信心の方達にです。
こういうお粗末ご無礼のない様な、折角信心をさせて頂くならば、細うても長う続く信心を、一つ皆さんにして頂く様に、今日の御霊のお祭りを境に、ご信者の皆さんにもお伝え下さいと言う様なものを、私は感じました。もし御霊と私とが話が出来るなら、そういう対話が交わされたであろうと、私は今朝思いました。
けれども例えば、昨日の熊谷さんところの御霊のお祭りは、なら残っておる娘の信心によって助かった。今日の御霊は言うならば、生前ああした打ち込んだ信心をさして貰い、当時のいわゆる合楽の前身であるところの、宗教法人、金光教神愛会という、会の初代総代として打ち込んだ、御用の出来た、その御用が認められない筈がない。
祝詞言葉の中にもありますように、亡くなった例えば御霊がです、例えば生前、少しでも神の機感に叶う事が出来ておったら、そこのところを取り上げて、どうぞいよいよ、御霊の位も進ませて下さい、安心の御霊としてのおかげも頂かせて下さい。生前ゆくりなくも過ちを犯した、心ならずもお粗末ご無礼が出来た。
そういうお粗末ご無礼が出来ておりますならば。どうぞ神様そこのところを、見直し聞き直し、どうぞお許しを頂いて、少しでも良い所があったならば、少しでも有り難いものを身に付けておったならば。
そこのところを取り上げて、そこんところをクローズアップして下さって、どうぞ御霊の助かり、御霊の安心の御霊、喜びの御霊と、又は御霊の働きの出来れる力をお与え下さいというふうに、まあ神様にお願いする言葉の中に、そういうことを使います。私は、それと同じ事を、今日は神様にもお願いさせて貰いました。言うならば、例え幾年かであっても、あれほど金光教の発祥の時代、神愛会発祥の時代に、打ち込んだ、あのところの勲というか、功労というものを、取り上げて下さっての、今日のお祭りであった。
お礼を申させて頂いておりましたらね、あの今日頂くあの竹輪のね、竹輪の中から、杉の枝を一本ずうっとこう出して頂く。神様の表現というのは、私が無学ですから、無学の私でも分かるように、神様の心を教えて下さるんだと思うんです。杉は、すぎに通ずる事だと思うんですよね。
あの、竹輪の穴ん中から、すうっと一本の杉の枝がでるんです。あらと思ったら、後からもう、次から次とね、杉のあの小枝が竹輪の中から出て来る所を頂きました。これはどういうことかと言うとね。今日の御霊の、言うならご遺徳と言うかね、あのそれを認められてです言うならば、あの杉家一門の御霊様たちが是に継ながって、竹輪んな、これは言うならばあの。
今朝からの御理解頂くと、まあ言うなら、神様がレンコン食うて下さって、杉寛三の信心に、言わばそれこそ悪いところは見直し聞き直しくださって、少しでも良いところを取り上げて、遺族の者遺族じゃない、先祖代々って言うんでしょうかね、言うなら親族一門の御霊までが、今日のお祭りにあやかっておかげを受けた事を教えて下さいました。
私はご神前に座らせて頂いて、あの今日のお供えになっております、お寿司やら、あのお魚なんかの、あれをこうとらせて頂いたら、それこそもう、ぷんぷんとね、あの寿司の匂いがするでしょ。匂いというものは分かりません。それは心と同じです。
私共の心が腐っておれば、それこそ腐った匂いがするでしょ。心が清められておれば、それこそ清々しい香りが漂うでしょう。もうどうでも通うもの。目に見えない神様とか、仏様とか通うもの。
通うものはそういう、例えば香りであり匂いである。それこそあの人ははらわたが腐っとると言った様な事を申しますが、そういう人がです、私はもし匂いというもの、神様が匂いなさったならば、もうそれこそ鼻つまみの事じゃなかろうかと思う。是でおかげの頂ける筈はありません。
私共はこの世に、それこそ何年の、生のおかげを頂くやら分かりませんけれども、その間この世には魂を、本気で清めに来てるんだと云う事です。しかも清めるところから分かるのは、天地の道理です。ご恩徳です。神様のお心です。
だからお心に添わなければおられないのです。我情は言われません、我欲も言われません。本当にこと神様、こと御霊様の事に関しては、尚更のこといよいよ、清いもの、それこそ麗しいもの、そういう物をもって御霊の前には、奉仕させて頂かなければならない。そういう生活を、私は信心生活だと思います。
どうぞ一つそれこそ本当に私、先日あの敬親会の時に、お婆ちゃん方ばっかりが集まる中でも申しました様ですけれど、申しましたけれどもね確かに魂の世界があるんだと。それはもう言うなら科学的にもう実証されておる様に、けれども唯あるということが分かっただけではいけない。
その魂がいかに魂としての、言うなら活躍の出来れる魂としてのおかげを、言うならばあちらの世界は永劫だ。ここは50年か100年だけれども、その50年か100年の間に本気で清めれる、清まらせて頂く所に心の精進をです、神様の方へ向けておかな、姿勢を作っておかなければ。
仏教的に言う、例えば極楽の世界というのは、それこそ、百味の飲食的なおかげが受けられると言うじゃないですか。暑くもなからなきゃ寒くもない。頂きたい物があれば、その頂きたい物が目の前に現れる。そういう結構な世界があるんだと。
それを金光大神の、まあ金光大神のというよりも、合楽でははっきり、私自身が頂いて示しておる、だから見に来て貰わにゃいけん、私の話を聞いて貰わにゃ分からんというのですと言うて、私が実際におかげを頂いておる話を、目の前におかげを受けておる話を、この頃お年寄りの方たち聞かせて頂いた。
私がお茶を欲しいなあと言ったら、玉露の最高の玉露が集まる。それだけではない、必ず誰かが羊羹もそこに持ってきよる。私がお神酒が欲しいなあと言うたら、もう最高のお神酒が集まる。それには、それにふさわしいお魚がちゃんと付いて来る。私が思うて成らざる事がない。あぁあれがいいな欲しいなと思ったら、確かに集まる。そういう働きのでけれる、あの世この世である。
あの世だけではない。だからこの世じゃ仕方がないから、あの世でと言ったってです、この世で助かっておらなければ、魂が清められておらなければ、この世で極楽の世界を味おうておらなければ、あの世で頂ける筈はない。
私は、この頃、年寄りの方たちに申しました、貴方達が私が言っている事を、嘘の様にして、親先生がうだごつばっかり言いなさる、と思って聞きよる人もあろうけれどもね。私のは事実を話してる。私がこの世で、私の心の中に、それこそ咲いておる、喜びの心というものは、天地金乃神様より他に知る人はなかろうと思う。そういう心の状態にもなれるのが信心なんだ。
しかも、そういう人がんなら思うところに、百味の飲食的なおかげが、ここにきちっとこう頂けれるという、そういう精進をです、私共はこの世で本気でさせて頂いて、本気でそこに打ち込んでおかなければ、成程、親先生があのように言ってあったが、もう少し打ち込んどけばよかったと言うたのでは、後の祭りだ。お婆ちゃん、あんた方もしっかり本気で、魂を清める事の稽古しにゃいけんよと言うて、丁度杉のお母さんも見えておられました。
そこでお話を、そんな話さして頂いた事でしたけれども。本当に人生の重大事ということは、是だと思うんです。本気で魂を清めだから私、この世でそういう助かる手立てというか、助かる道というものを、はっきり把握しておく事なんですこの世で。そういう思いしきりで御座います。
今日の御霊様は、朝のご祈念の前々から、お取次を頂いて御座いましたから、お願いはして御座いましたけれども、今日の御霊様の縁に継ながる御霊様たちが、今日のこの言うなら、真心で奉仕されるこのお祭りに言うならば、縁に継ながる御霊様方までもです、それこそ竹輪の中から杉の枝が、次から次と出てくる様に、あの頂かれ潤われたと云う様な感じのお祭りでした。
私は、あの寿司の匂いがぷんぷんする時に、もう感動が湧いて来て、体が震うような思いが致しました。通わにゃいけんです。それがどうでしょう。腐った心の言うなら匂いが、もうそれこそ鼻をつまみたい様な匂いがしたんじゃいけないでしょ。
本当にです、もうそれこそ御霊様が食欲を起こしなさるような、素晴らしい匂いと言うか、香りの漂う様な心を目指して、信心生活に本気で、打ち込んでいかなきゃいけないと、思わせて貰います。